昨日3月17日は、以前勤めていた会社の先輩が亡くなった日。命日。
今から8年前。
もう8年。
当時、一緒に働いていた。(と言っても先輩はとても偉い人だったが)
その先輩のパワーはいつも周りを巻き込み、「無理だろ」、と思うことを実現していく。
すごい人だった。
その人の大好物は「火中の栗」
普通、誰もが近づかない火中の栗
燃えさかる火の中にある、今にも弾けそうな栗に手を伸ばす。
一度、聞いたことがあります。
「火中の栗が何で好きなんですか」と。
すると彼は、「そういう時はな、何かが変わろうとしている時なんだよ、だから俺は拾うんだ」
自信に満ち溢れた言葉に「なるほど」と感心したのを覚えています。
もともと、「火中の栗を拾う」の由来は、フランスの寓話。
ずる賢いサルがネコをそそのかして囲炉裏の中の栗を拾わせ、栗をせしめる。ネコは大火傷を負い、栗にありつけない。
要は「人のために危険を冒しても何かをする」という意味。
最近は、「火中の栗を拾う」の意味を「君子危うきに近寄らず」みたいなネガティブな意味で捉えられることもあるけど、その人は、常に他人のために、そんな気持ちでいたのかな、なんて思います。
亡くなって8年。
これまで困難や難題や火中の栗を目の前にすると、「今、彼ならどんな判断、どんな行動を取るだろうか」といつもそう考えるようにしています。
人は2つの評価があると言われます。
生きている時の評価
亡くなってからの評価
彼の薫陶を受けた皆は、未だ同じ気持ちでいるんじゃないかと、いつも思っています。
会社を辞めてしまった今もそんな気持ちです。
そして、もうすぐ彼の亡くなった年齢になります。