今、シェアハウス、シェアオフィス、カーシェアリング、ライドシェアなどのシェアリングエコノミーが喧伝される。
でも、シェア文化、日本では今に始まったことではない。
というか、失われてしまった文化だと感じている。
昔は、
隣近所の人に醤油を借りにいった。
お風呂は銭湯。
洋服はお下がり。
学生は下宿。
神社の境内は子供たちの遊び場
頻繁に行われた養子縁組も社会が皆を支えていた。
子供の成長は近所の人が皆で受け持っていた。
機械化されない農業は皆でやるしかなかった。
旅行だって民宿
その他、周りを見回せばまだまだある。
すべてシェア
戦後、一番大きく変わったのは家の所有だろう。
日本では長屋(ながや)を中心に賃貸住宅が基本だったものを「持ち家政策」が戦後の大きな政策の柱になり経済をけん引した。
そして生活が豊かになるにしたがって所有欲を満たすために、また、アメリカの大量生産大量消費に憧れ、モノを費消していった。
「家と車」これが2大所有欲を満たした。
それが、阪神淡路大震災、東日本大震災と度重なる自然災害、人口の減少、ITの進化などによって「もったいない」「所有しても瞬時に物は無くなる」「特に新しくなくても中古品で十分」「古着がカッコいい」と言った有形無形の変化が今のシェアに対する関心を高めた。
でも、昔のシェアは、すべて人々の生活の延長線上にあったもの。
流行だから、儲かりそうだから、そういったビジネスとして捉えた途端に需要を大きく上回る供給が始まる。
最近のシェアハウスのように過剰な融資まで誘引してしまうことさえある。
シェアは流行では無い。
人々の生活(暮らし方)だ。
働き方改革ならぬ、「暮らし方改革」か。
でも、シェアは昔からあった日本人の暮らし方であることを忘れないようにしたい。